目次

1ネット図書館を実現するには?  2校正・校閲の難しさ、重要性

3 ネットブックプロセッサーの必要性


3 ネットブックプロセッサーの必要性 <2019年9月8日>

レワニワ閲覧室はレワニワ図書館の核心部分です。度厚かましくも「図書館」と自称したからには、蔵書を充実させていくことは責務であり、そのつもりで閲覧室配架用の作品を用意していました。作品を蔵書にすることが簡単とは思っていませんでしたが、ここまで難渋するとも予想していませんでした。

そもそも蔵書をPDFにすること自体が妥協でした。版面が美しくなく、ダウンロードされてしまうのを、やむを得ないことと諦めました。そうやって数冊の「本」を製作しましたが、見開きで読めないことが不満でした。電子書籍も片ページが基本のようですが、こちらは便利来機能満載です。弱点の多いPDFだからこそ、せめて見開きにしたい……そう思って、挑戦しました。

縦書き文書を見開きで読める「本」にするには、ページを動かして再構成する必要があります。で、それができるはずのとあるPDF変換アプリを導入したところ、フォントが勝手にゴシック体に入れ替わっていました! 別のアプリでは文字と「 」などの符号が重なってしまいます。PDFは画面の見た目そのままを仮想的に「印刷」するものではないのか……? よく分かりませんが、違う時もあるみたいです。

ワードプレスのプラグイン(専用アプリ)FlowPaperは、横書き・左開きであれば割合簡単にPDF・見開きの「本」が製作できます。特別展示室の「鳥の女王」はこれを使いました。ニュージーランド製で英語前提のため、縦書き・右開きは想定されていませんが、これを操作してPDFで右開き、見開きで読める本を作ろうとしました。

FlowPaperは裏表紙から右開きにページをめくることもできます。なので、読者に最初に最終ページに移動してもらい、そこから右方向にめくってもらえば、右開きの本ができると考えたのです。しかし、これを実現するためにもページを入れ替える必要があります。PDFは諦め、ワープロ・アプリの原稿上でページを移動させることにしました。

そうしたらページの左右が逆転したり、右が奇数ページ、左が偶数ページになったり。試行錯誤したものの、ワープロ原稿のページ入れ替えでは、どうしてもノンブル(ページ数)が自動的に変更され、入れ替えがうまくいきません。右往左往しているうちに目と頭の痛みが悪化して、PC作業自体を続けられなくなったのでした。

というわけで、閲覧室の蔵書を増やすには、片ページのままで我慢するか、横書き・左開きの「本」を作るしかないのが現状です。振り出しに戻りました。ePubに挑戦することも考えていますが、きちんとした形にするのは、素人にはやはり難しそうです。

こういう状況に立ち至って改めて、「ネット上の本作りに特化したワープロ」こそがネット図書館の肝なのだと分かります。こうしたワープロがなければ、ネット図書館はシミュレーションより先に進めません。

HTMLに依存せず、入力画面がそのまま「本」になるようなワープロを作り、その上で独自のアプリやビュワーの生態系をネット上に確立できれば、日本発の独創的なプラットフォームが誕生します。気宇壮大ですが、私にはこうして濁り江でゲロゲロ鳴く以外にできることがありません。

ここで「ネット上の本作りに特化したワープロ」に名前をつけておくことにします。何しろそれは「ネット図書館の肝」なのだし、だいいち「ネット上の本作りに特化したワープロ」と毎回書くのは格好も効率も悪い。

考えた結果、「ネットブック・プロセッサー」、略称は「ブクプロ」ということにしました。「ネットブック」は一時期ネット閲覧用の安価な小型ノートパソコンを指して使われましたが、今は影も形もないので、「ネット上に『発行』され、ネット上で読まれることに特化した本」を意味する言葉として再利用しても問題ないでしょう。

私一人が了解すればいいので、これで決定です。ジャンジャン。名前はできましたが、実体はまだありません。いつか実体ができるのでしょうか?

(「レワニワ書房通信」の記事を一部改変して掲載しました)

2校正・校閲の難しさ、重要性  <2019年6月10日>

レワニワ図書館に自らの小説やエッセイを掲載すると決めてから、校正・校閲をどうしたものか悩んでいました。作品の質については私自身が責を負えばいいし、誰でも無料で読めるのだから売ってもらう必要はありません。

出版社の仕事でいえば編集と営業は、この際なくていいわけです。一方、校正・校閲はどうあがいても自分ではできません。第三者の目を入れずにミスを見つけることは困難です。誤字脱字が目立っては読者に失礼ですし、無料であることや読者の数がごく限られることは言い訳になりません。読者はその人の限られた貴重な「資源」である時間を消費するのですから。

私の考えるネット図書館は、別の見方をすれば、出版社を介さないネット出版のシステムと言えます。そのシステムにおいて編集作業が省かれるのは残念ですが、だからといって「本」を出せないということにはなりません。しかし、校正者の目を通さない「本」は、原則を言えば、世に出るべきではありません。

こう考えると、校正・校閲の仕事は、出版という事業においてこの上もないほど重要であることに気づきます。実際、校正・校閲がきちんとできることは、出版社にとって最大の価値の一つなのです。

なのに出版社の中で、校正・校閲部門の評価は高くないことが多いようです。「不採算部門」として経費削減の対象になったり、ベテラン校正者が待遇面で評価されなかったり。校正・校閲部門の廃止というドラスティックな改革の噂さえ聞いたことがあります。その後どうなったのか聞こえて来ないのは、外聞が悪いので内緒にしているからでしょうか。

私の妄想の中では、ネット図書館において校正・校閲を仕組みとして取り込み、それが校正者と書き手双方のためになるシステムがすでに考えられています。この「システム」については、また別の機会に触れます。さて、レワニワ閲覧室に配架されている私の「本」の校正はどうだったかというと……。

レワニワ閲覧室の蔵書の解説にある通り、『マント』と『簡単な生活』は校正者の目が通っていません。代わりに、私の目は校正にはまるで不向きの節穴だという自覚があるので、各々10回近く見直しを行いました(校正は普通は多くても三校まで)。もちろん、回数が多くても、本物の校正者の代わりにはならないわけですが……。

『それ』は、プロの校正者である妻に見てもらいました。え? だったら端から奥さんに校正してもらえば良かったんじゃないの、と思われるかもしれません。しかし、そうはいかないのです。彼女は有能なプロの校正者であり、フリーの立場ですが仕事が途切れることはほとんどありません。

だから、たまさか訪れる不意打ちのような休みの日にまで、校正をやってもらうわけにはいかないのです。それじゃあ休みになりません。『それ』は、滅多にない、ある程度長い休暇が取れた時、「ヴォランティア」としてやってくれたのでした。

妻は、プロとしての仕事のように、長時間集中してやったわけではありませんでした。それでも、校正者の目が通っていると言うことはできると考えています。実は先に私が、一応ちゃんと見たつもりだったのです……が、指摘だらけで、あまりのレベルの違いに愕然とさせられたことでした。

(「レワニワ書房通信」の同題の記事を一部改変して掲載しました)


1 ネット図書館を実現するには? <2019年5月24日>

このサイトのトップページで、ネット図書館を次のように「定義」しています。「個々人がネット上に設けられた自らの蔵書スペースに自発的に収蔵した自作の『本』の集合体」これは、青空文庫をはじめすでに発刊された本を電子的に集めた既存のネット図書館とは異なるものです。

また、作品をネットに上げる仕組みはいくらもありますが、私の知る限り、それらは「中身」を開示するスペースのようです。私が考えているのは、個人がきちんと作った「本」をネット上に収蔵できる公開アーカイブです。

こうしたネット図書館を可能にするには、次の2点が実現される必要があります。1)ネットで閲覧できる「きちんとした本」を、簡便な操作で製作できるワープロ・アプリ(「本づくり」の機能に特化したもの)。2)個人作の「本」の無料での収蔵・閲覧を可能にするネット上のプラットフォーム。今はどちらも存在しません。

1)が必要と考えるのは、私が日本語を母国語としているからでしょう。日本語の特徴である縦書き、漢字仮名交じり文はwebと相性が悪く、ネットで読める本を個人できちんと作ろうとすると困難を極めます。ePubは罠だらけの迷路、PDFはボール紙の衣装みたいというのが私の印象です。

ネット図書館を実現するには、1)のような日本語ワープロ・アプリが不可欠です。PDFやePubといった既存のフォーマットを使わず、そもそもHTMLベースとしなければ比較的容易に実現できるのではないでしょうか。コピーガードなどの技術面、ネットの世界のルールなど問題点は少なからずあると思いますが。一太郎のジャストシステムが作ってくれないかなあ、というのが私の願望です。

1)が実現して初めて2)が可能になります。こうした仕組みは、HTMLでもさほど不自由しない各種アルファベットの世界の人々は思いつかないでしょうから、独創的なプラットフォームとなるはずです。この<出版社を経由しない個人の「本」の公開アーカイブ>は、やがて世界中で当たり前のものになる可能性があります。

ニュースをTwitterやFBで、映像や音楽をYouTubeで個人が発信できるようになったのと同様、「本」も個人が「発刊」できるようになるということです。この状況は、それ以前にはなかった種類の「本」を生み出すことにつながります(出版社は不要にならず、役割が変化する)。善し悪しあるでしょうが。ともあれ、こうしたプラットフォームを日本語ベースで作り、世界に先駆けてデファクト・スタンダードとして確立することには大きな意義があると考えます。

ですが、今はボール紙の衣装をまとったレワニワ図書館があるだけです。未来を作り出す力は私にはありませんので、ひとまず、このささやかなサイトをネットに開放できることに満足するとしましょう。

(「レワニワ書房通信」の同題の記事を一部改変して掲載しました)