1.縦横をめぐる葛藤

 レワニワ図書館を構想した時、また開館した後も、こんなはるか遠い昔の「詩」を蔵書に加えるつもりはありませんでした。文芸誌に書いたものの再録を中心に据える予定で、PDFであっても見開きで読めるのであれば満足しようと思っていました。ところが、縦書きのPDFを見開きにして掲載することは、私の力では技術的に不可能だったのです。少し背を伸ばせばできるだろうと想像していたのに、作った「本」は縦スクロールで1ページごとに読むしかないのでした。

 Flow Paperというアプリを使って横書きの絵本を作ってみたところ、解像度に難があるものの、見開きを実現できるとわかりました。しかし、ニュージーランド製のアプリなので横書きが前提であり、縦書きでは造本できません。少なくとも私にはできませんでした。このアプリを使って見開きの本を完成させたら、意外なことが起こりました。縦スクロールの「本」を作る意欲が消失したのです。縦スクロールでは本ではなく書類を繰っているみたいで……。以後、図書館を更新する気持ち自体が薄れました。

 そこで古い、古い横書きの断片を引っ張り出して来て「一冊」にまとめようというアイデアが生まれたのでした。縦書きが日本語、日本文学のアイデンティティーの大事な一部だという気持ちは揺るがないものの、横書きがどうしても駄目とまでは思っていません(だから、横書きの絵本を作った)。縦のものを横にしたくはないけれど、元から横書きのものをそのまま「本」にするのは抵抗が少ない感じでした。

 となると、材料は古いものしかありません。十代、二十代の頃、詩みたいなものが頭に浮かぶと横書きのノートに記していました。その後、横に打って縦に印刷するワープロ時代を経て、パソコンを使うようになると縦書き一辺倒になり、ついでにメモや下書きを滅多にしなくなりました。横書きの本を作るなら、古い材料を使うしかなかったのです。

2.挨拶はぬき

 心理的な抵抗が、縦横問題とは別のところにありました。半世紀近く前のものを引っ張り出して来ることが嫌で仕方なかったのです。そう思いつつ、出してしまいましたが……。明確な理由があってのことというより、気分に阻害されている感じでした。それは、どのような心理だったのでしょうか。ちょっと考えてみます。

 一つは言うまでもなく恥ずかしさです。若い時代の自分をほじくり返せば当然でしょう。昔書いた詩など、ファッションや髪型以上の「黒歴史」かもしれません。しかし、一方で自らへのひいき目もあって、中にそう捨てたものでもないものがあるはずだと……残ったのはナンセンス詩でした。それは内容より「形式」が先に立ち、自分自身を語らない、むしろ語れないジャンルです。

 それでも「若書き」で恥ずかしいのですが、そこは乗り切りました。「横書き詩集1」をまとめ、次には「2」を作るつもりで予告までしたものの、後に中止と決定しました。愛着のある一行、あるいは数行が含まれる小品はあります。しかし、全てが執筆当時の自分と切り離せないものなので、心理的な抵抗に打ち勝てそうにありません。

 二つ目は、過去の自分への裏切りではないかという恐れです。ずっと筐底にしまっていたものを、挨拶なしに(しようと思ってもできませんが)外に出してもいいものか、と。こんな形で公開する可能性を考えたはずはありません。ネットなどこの世にないに等しかったのですから。ただ、公開するつもりが全然なかったというと、それも違います。

 若い頃は自己評価が低く、作った詩を投稿したり、自費で出版したりするつもりは金輪際ありませんでした。それでも捨てずに残しておいたのは、いずれ何らかの形で利用できればという下心があったからです(過去の「遺物」を、昔の学生証のようなものまで捨てられないという性質の故でもあるのですが)。しかし、結局ただの一度も活用できた試しはありませんでした。断りなしに過去作品を出したことについて、若い自分から苦情を受け付ける用意があることを表明しておきます(最近、夢見が悪いのはもしかして……?)。

3.遠い過去より短い未来

 三つ目は、過去と現在の断絶です。これまでレワニワ図書館でリユースした作品については、今の自分とつながっているという確かな感触を持っていました。なので過去作品であっても、どうしても気に入らなければ書き直しました。しかし、筐底に置いたきりだった断片や反古については、最早自分とつながりのあるものとは思えないのです。そうしたものを、限定された形であれ、公開していいものか迷いが生じました。

 どうやら私は過去の自分の作品を振り返ることを、書き手として、したくないらしいのです。こんな年齢になったのに、長生きを願ってなどいないのに、なお現在から未来に向けて書きたい気持ちが強く、一時的にであれ過去に浸ることを嫌悪しているようなのです。「らしい」とか「よう」とか曖昧な書き方になっているのは、そんな風に元から意識していたわけではなく、この後書きを書こうとして、ああ、そうだったのかと確認、あるいは再確認したからです……したみたいです。

 いつ新しい小説が書けるのか、今は見当もつきません。寿命の方が先に来そうな気もします。おまけに、旧約聖書のような小説を書きたいなどと無闇に高い目標を掲げてしまいました。ハードルを上げて書かずにすむ口実にしている気配がないでもありません……。しかし、今なお気持ちが過去に向かおうとしないのは事実です。大昔の作品は、先に向かう姿勢が消えてなくなった後で――そうした時は必ず来るわけですが――まだ手が動くようなら改めて考えることにします。